ホームの母を訪ねて30分間の面会。
戦後の母の記憶を呼び起こす。
14歳で終戦を迎え、2年間、舞鶴の医院で看護助手をしていたそうだ。
看護学校ができるまで、国民学校から卒業生6人だけ採用されたとか。
看護学校に入学し、寮生活を送り国家試験に備える。同じ境遇の6人の内、合格したのは3名のみ。そして後輩に寮を譲るためにも関西圏に看護師として「お礼奉公」。
昭和30年前後に、舞鶴自衛隊地区病院に。一人暮らしだった祖母とも暮らすことに。
地区病院の経理として配属された父と出会い、教育隊に栄転した父と結婚し、父は養子同然に舞鶴の暮らしを始めたが、「君は関東出身なんだって?」と父は横須賀に配転されることに。
「話が違う!」と祖母は悲しんだが、1歳と2歳の年子の私たち姉妹を連れて、横須賀の父を追って母も横須賀へ。いくつかの病院で看護師をしたあと、横須賀共済病院の外来で21年勤める。21年勤めると、共済病院での治療や入院が永久無料で行われる「パス」がもらえたのだとか。そのルール、もう効力がないと思われるが。
円満退職だったのか、聞いてみると、もう一人21年勤めた人がいて、ダンナ様がうどん屋を始めたのを手伝う必要があったのだとか。「どっちも立ち仕事で大変だね」。
二人一緒に、ナースの職を離れた。
退職後、母は旅行三昧。「趣味の園芸」の講師、江上先生と共に、花を観るヨーロッパツアーに何回か参加したり、70万円もするクルーズにも参加したとか。バブリーでした。
父と一緒に参加するより、一人で自由に参加した方が楽しかったとも。
団体旅行で、ずらーっとバスが並んでいるところで、「こっちこっち!」と参加者を誘導する参加者の中では若い元気な参加者だったとか。添乗員にとっては便利だったのだろうな。
昔話をする母は、ホント91歳には見えなかった。