母の新米ナース時代のことを初めて聴いたので、書き残すことに。
受験した半数が合格し、遠方からの合格者と共に、4人部屋の寮生活を始める。
舞鶴港では昭和20年9月から引揚船が到着したが、当番になると、DDT消毒をされた大陸からの人を何人か受け持ち、移動させる役目を与えられた。
母が建物の3階か4階にあったトイレに行きたくなると、少年兵らしき人が「行ってきな。僕が見ててあげるから」と役目を代わってくれた。
舞鶴から福知山まで見送りの付き添いに電車で同行すると「ここからどっち方面に行こうかな。俺んち、農家で食い扶持がないから。」と困った顔の男性を幾人も見送ったそうだ。
5年で、正看護師の資格を取得。
その間も多くの引揚者の受け入れをしたようだ。
数年、舞鶴で勤め、東大阪などで勤務のあと、祖母にリウマチが悪化したため実家に近い、舞鶴の自衛隊地区病院で勤務。そこで埼玉から来ていた経理をしていた父と出会うんだな。
戦後10年は、ほぼ母の10代と一人前の看護師になるまでのストーリーが詰まっていた。