leaf's blog

記録しておきたい文章を綴ります。

舞鶴 引揚船と母

終戦から69年目を迎えようとしている。

舞鶴国立病院で看護師をしていた母(昭和6年生まれ)から、中国、シベリアからの帰還事業の頃(昭和20年代半ば)の話を聴いた。

 

舞鶴港に引揚船「高砂丸」「興安丸」が次々と着く。シベリア・中国から帰国してきた旧日本兵が中心。

(ネットで調べると、1953年前後か?)

上陸時、歩行困難な人を、看護師が4人がかりで担架に乗せて運ぶ。

車もないのに、どうやって患者を病院のベッドまで運べたのか、今では不思議だそうだ。

 

病院では、診断後、受診科ごとに病棟に振り分けられ、結核病棟、らい病棟、淋病病棟は、看護師も「り患」する危険が高く、希望者はいなかった。

そのうえ、淋病患者は、「現地で遊んできたのだから」と、同情されなかった。

ましなのは、外科病棟。ケガ人のガーゼ交換がメイン。オキシフル(消毒薬)もなく、乾いた数少ないガーゼで交換するしかない。その上、数日後麻酔なしで交換。「かさぶた」がはがれ、叫び声を上げる患者。

手術室では、シベリアの寒さの中で患った痔の手術が連日続く。腰椎麻酔を打ったが、時間がくれば「次の人にベッドを空けて」と、患者のお尻を叩いたりつねったりして麻酔の効き目を「強制終了」させる母。

現地で負った傷はホチキスのような金具で緊急縫合手術がなされ、帰国後皮膚を縫い合わせた金属製の針を抜き、新たに縫い合わせる手術も多かったそうだ。この場合は、麻酔なし。

比較的軽度かつ旧上等兵に看護助手として手伝ってもらい、病棟の夜間の身守りを担当してもらった際には、夜食のおにぎりを一緒に食べたこともあった。

帰還事業が進み、各地で事務作業をしていた「軍属」が最後に帰還し、引揚船は4年間程度でその役目を終えた。

 

応急処置を済ませ、地方に帰還する兵士を送り届け、地元の役所から認め印をもらうのも国立病院の看護師の役目。送り届けた帰還兵と結ばれ、北海道の大地で新たなスタートをきった同僚看護師もいたとか。

 

岸壁の母」のモデルとなった母親を、実際何回か舞鶴港の岸壁で見かけた。

シベリア抑留兵は、現地でバラバラに活動させられ、「息子を知りませんか」と引き上げ船から降りてくる帰還兵に呼びかけても、そっけなく「知らない」という返事ばかり。結局、「岸壁の母」は、舞鶴のうどん屋を手伝いながら、ずっと息子の帰りを待ち続けていたそうだ。

 

帰還兵事業に貢献したことが評価されたのか、GHQから、「ララ物資」が看護師たちにはとりわけ多く配給された。

しかし、山積みのアメリカからの古着はサイズが大きく、ブラジャーもパンツも3枚履いて丁度だった。靴も、24cmサイズの次は27cmサイズなどと超ビッグ。なかなか妙齢の女性に合うものはない。紐のないブラジャーのつけ方がわからず、時間が経ったら、前後が逆になっていたこともあった。

 

戦後、国立看護学校に入学した者は、半数が辞めていった。全寮制で、地方から入学したものの、方言が抜けずにいじめを受けた者もいた。根性がある者だけが残った。試験前は、ヒロポンの服用薬を使用して、眠気を覚まし、三晩徹夜も当り前。2年制で、卒業後2年間のお礼奉公。その時期に帰還事業があったらしい。

 

その後、母は、海上自衛隊舞鶴地区病院で父と知り合い、姉と私を産んだあと、父の横須賀転勤に伴い、横須賀で老後まで過ごすことになります。