leaf's blog

記録しておきたい文章を綴ります。

宮部みゆき「文学と東京」

明治学院大学戸塚キャンパス公開講座第6回目は、ゲストに作家・宮部みゆきさんをお迎えして、「文学と東京」というテーマで開催。500人の大教室に立ち見が出る「こんなに入ったことは観たことがない。授業ではまずない」とホスト役の原武史先生がおっしゃるほどの盛況ぶり。
まず、深川を離れたことのない宮部さんと昭和30年代以降団地化した東京の西で育った原先生との、お互いへの憧れが語られた。
(宮部さん)有吉佐和子さんが『複合汚染』の中で、東京の下町は本屋がなく民度が低いと綴られたことにショックを覚えた。おしゃれで文化度の高い西に憧れた。
地縁がないものは描けない。土地から力をもらっている。作風の限界とも自覚しているが。
作家として今年で25年目。昭和と平成で作品の発表数が半々になった。しかし、昭和をひきずっている物書き、21世紀に乗りきれず、時代物が増えた。現代のコアな東京を描くのが難しくなり、昔ものを描いていると楽しく、文化的な遺伝子(ミーム)が喜ぶ。
乗り物好きで、車窓の景色が楽しく、下町と違う景色が印象に残る。きっと、このキャンパスも、いつかは描くだろう。
松本清張も好きで、旅の面白さ、侘しさが伝わる。国を成り立たせている動脈としての鉄道は不可避の存在で、国の隅々まで栄養を行きわたらせている。また、人材を集めてくる、社会の血管であり、骨である。
自分にとってのターミナル駅は上野であり、東京駅はピンとこなかった。丸の内のオフィスビルも「こんなところがあるのか」との驚き。
都電の復活を願う一人。荒川線は乗ったら負けという感覚。路面電車が走っている街で暮らすのが夢。
地下鉄は便利だが、移動時、上に何があるかわからない。街や人との距離感が違う。体感できないものを描くのは辛い。
社会と生に体感できなくても暮らせてしまう都市生活→不安→描きにくい。逆に気にしなくても創作できるのが現代の作家か。

「火車」に対するヘラルド・トリビューン紙の取材で「英語圏の人間も日本で今何が起きているのかが知りたい。ハートは同じだがライフが違う。そのライフが観たいのだ」と言われた。

東日本大震災当日は、自宅にいた。テレビの映像を観てびっくりした。高齢の親が住むマンションのエレベーターが止まり、買い出しもしんどく、自分がマンパワーとして何と弱く、自分の身も家族も守れないのか、役に立たないのか、突きつけられた。
しかし、仕事は一日も休まなかった。現実逃避でもあったが。自分が自分を落ち着かせるのに必死だった。
直後の読者カードに、「本が読めるのは幸せ」「被災地に本が届くと役立つ、喜ばれる」とあり、面白い小説を描き続けるのが自分の役割と悟った。

(質疑応答から)
江戸時代を調べるには、まずは書物。ネットは使わない。江戸検定対策本も有効。現場に行くことも大事。
人の息遣い、体感が伝わるには、人好きというわけではないが、誰が下支えしているかが重要。社会は人間で回っている。人がいなければ、駅も開かないし、物資も届かない。
文章で生活感を重視しようと思うと、テンポが遅いと指摘されることもある。
創作のひらめきは、締切が近づくと「カミカゼ」が吹くもの。緻密な現代ミステリーはなかなか考えられなくなってきた。人物相関図を描いたり、地道な作業を重ねている。
普段は、読書や、CS:I、クリミナルマインドなどの外国ドラマをよく見る。
法律事務所に勤めていたとき、『判例事報』を隅々まで読んだ。
最近の作家では、沼田まほかるさんに5年前から注目している。
時代考証では、太陰暦や数え年が難しい。今でも失敗するが、失敗するとよく覚える。電話がない社会を描くのが難しい。時の鐘もずれることがあったらしく、アリバイのネタとして成立しない。