leaf's blog

記録しておきたい文章を綴ります。

梯久美子×原武史

明治学院大学 戸塚キャンパスでの公開セミナー第3回目。
前回の立花隆さんは、所用でパス。補助席が出て、遅れて行ったら入れなかったらしい。無理もない。
今回は、1961年生まれのノンフィクション作家。

散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道

散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道


初単行本で、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
2006年のクリント・イーストウッド監督「硫黄島からの手紙」の制作は、偶然同時進行だったそうで。

週刊誌『AERA』「現代の肖像」のライター当時、栗林中将のことを聞き、取材を開始。
父親も戦後の自衛官で、「軍人とは何なのか」という動機もあった。
遺児二人にも存命中に取材。栗林家に残る電報から「散るぞ悲しき」と、喧伝されている「散るぞ口惜し」とは異なる真実を発掘。家族に宛てた最後の手紙にも「お勝手のすきま風の修理をしてこなかったのが悔やまれます」とよき家庭人ぶりを書き残していた。
栗林中将は、52歳で部下の先頭に立ち、前線で亡くなったが、これがウソではないか、ノイローゼになり、敵に降伏しようとしたところ、部下に惨殺されたと後年指摘された。
これを唱えた人は、終戦当時30代の参謀で、上官の44歳の海軍大佐は「敵の肉を食らう位の気概」を持てと、人肉食を勧めた方。
結局、栗林中将は、やはり、最前線で亡くなったということがわかった。
終戦当時、30代、40代、50代と、その終戦時の背景次第で、戦争の向き合い方、オトシマエの付け方が、ここまで違うのだ。
硫黄島にも慰霊の方たちと訪れる機会に恵まれたが、栗林中将が作戦を練っていた土地まで奇跡的に踏み入れることができ、ここで戦った23000人が戦死し、17000体の骨が残る島に踏み入れ、怖くはないが、力をもらい、骨を踏んだ縁で、本を書きすすめた。
自分の力だけではない、蛮勇を奮って取材を進め、縁(ゆかり)の土地を訪れることで、土地が歴史を記憶している。その人が最期を迎えた場所を観ることで、土地が亡くなった人を記憶していると思える。

質疑応答では、ノンフィクションを書くにあたって(取材するにあたって)、感情移入をどこまでするか?という明学生(原ゼミ生)からの質問に、努めて冷静に書かねばいけないと心しているが、感情移入することも多々ある。
また、資料を採用する基準や視点に触れ、原資料にあたる。「3つあれば正確」信頼できる複数の証言にあたることを勧めていた。
情報を調べてそのキリのつけ方も質問され、研究論文ではないので、全部は書かない。書きたい流れで取捨選択する。ノンフィクション作品として、推敲を重ね、洗練させていくことを心がけていると答えていた。
最後に、高齢の女性から「靖国神社をどう思うか?」というストレートな問いに対し、「靖国神社には死んだ人に挨拶に行く気持ちで参拝したが、その歴史観には賛同できない。『死んだら靖国で』というのは、悲しい約束であり、その約束に参加せざるを得なかった。しかし戦後、オトシマエをつけていない」

原先生は、毎年ゼミ生を靖国神社遊就館に連れて行くそうです。国家の歴史を傍観するにはここしかない。国家の歴史観がよくわかるが、途中から感情に流され、理性的判断をマヒさせる。代わりの博物館ができなかった。靖国批判をしているだけで、対案実現の努力がなかったと指摘。

(感想)
梯さんと原先生は同世代、しかも父親が自衛官という同じ生育環境で、言葉を生業にしていると、ここまで明晰な講演ができるのだとまず脱帽。
タイトルは「戦争と鉄道」ということで、廃線について連載している梯さんのことは入口までだったかな。
ノンフィクション作家として「蛮勇を奮う」姿勢に好感が持てました。